Journey through the decade 或いは、決意表明

 

「ざっと八万食消化する人生で

 既に三万食消化した体よ

 あの日と違う細胞で感じる

 風よ光よ3月の海よ

      -LOVE/FoZZtone

         配点(惜別)」

 

 十年一昔とよく言うように、10進法を主に利用するこの世の中では一つの区切りとして10と言う単位が使われています。そう言うわけでは10という数字は記念であり、一つの時代の終わりといえるのかもしれません。

 10年前の今日。そう書き出せば、何のことを書くのかなんとなく察せられてしまいますね。「変わらないものないと思ってた、そんなことないのに」こんな言葉を幾度聞いたでしょう。「頑張れ」そんな言葉を幾度もらったでしょう。「大変だったね」どんな気持ちで投げられた言葉でしょう。奇しくも今年に入ってからセレモニーとでも言うようにまたあの時の余震がやってきました。忘れるなと言わんばかりに。熊本地震胆振東部地震と大きな災害が起きたのち、しばらく活動が落ち着いているなかで、ひょっとすると地震の恐ろしさが少し和らいでいたのかもしれません。

 ここ一年私は月に一回、必ず見ている動画があります。それは津波に町が飲まれる動画です。自分は体感しなかったがしかし、忘れてはいけないもの。そう思って見ています。2度と起こって欲しくないと思うかたわら、起きた時にどう動くべきかどうしなければならないのか、考える時間にしています。私は、何かと大きな地震に縁がある人です。嬉しくはないですが、生まれた土地柄に加え、某大農学部を入学辞退した年に起こった熊本地震(その学科の所在地)、北海道に移ってから経験した胆振東部地震と、受けた被害の大小に目を向けなければ今後も私の行先がどんな土地であれ、地震という影を拭い去ることはできないと感じています。

 数分の動画を見るなかで、最近私の心境に変化がありました。田中将大投手が楽天に復帰することが決まった日に、久々に2013年の楽天日本シリーズ制覇の映像を確認した時、泣いている自分がいました。割と最近、「泣いた」という言葉の安売り(当社比)をしている自覚はあるのですが、当時全く感じなかった衝動が今になって現れたことに驚きました。なんともない、何も感じない、そう思っていたあの日の出来事が、本当はこんなに重く、大きなものとして存在していたことに、今更気付かされました。

 頑張れの言葉を見ても、何も感じなかったあの日。テレビから流れる「フクシマ」という言葉から耳を塞ぎたかったあの日々。自分の地元を誇ることが憚られた月日。鬼の首でもとったかのように、外野が騒ぎ立てる、そんな日常を忘れないし、修学旅行で通った国会議事堂前で、ムーブメントのようになっていた原発反対デモを見たことも忘れたくない、そう思えるようになりました。

 数奇なことで、あの日から10年が経った今年、東京五輪が開催されるようです。10年が経ち、今の社会で今日ぐらいしかあの日のことや地震に関わることが殊更に取り上げられる日はありません。

 あの日から、何か変わったんでしょうか。あの日から何が得られたんでしょうか。今できることは何なのでしょうか。明確な答えが出ない問題ではありますが、考えなければならないのだろうと感じています。

 自分より下の世代で震災について覚えている人はおそらく自分たちの世代より少ないでしょうし、あの日のことを忘れていく同年代や上の世代も少なくないはずです。風化させないこと、ちゃんと実態を持った問題として向き合うことの重要性を今、再認識しなければならないと感じています。

 10年が経った今年、こんなご時世ではありますが、岩手宮城そして福島の沿岸部をようやく旅したいと思っています。あの日の出来事にようやく感情を持って向き合えたことで、ようやく場所を見る意味が生まれた気がしています。

 10年。あの時中学生だった自分も、社会人と肩を並べる歳になりました。かなり失礼な話ではありますが、今ならちゃんと向き合える気がします。

 ようやく、さよならが言える気がします。